essay | Vol.4 | 2023.03 update

南山大学 名誉教授
安田文吉さん

 熱田に由縁の人物は、日本武尊を筆頭に、平将門、池禅尼、源為朝、源頼朝、源義経、足利尊氏、新田義貞、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と枚挙に暇が無い。また、熱田に関わりのある文学は、古事記、万葉集、将門記、保元物語、平治物語、平家物語、海道記、とはずがたり、太平記、義経記、野ざらし紀行、笈の小文、椿説弓張月などこれまた枚挙に暇が無い。まさに熱田の不思議・熱田の深秘だ。これを順次解明していきたい。
 まずは土地柄から。元々熱田を含む尾張の土地は、熱田台地が中心で、その半島の先端に熱田があった。さらにその岬の先端に熱田宮があり、陸路・海路の要衝でもあった。また、周辺は木曾の山、木曾三川、伊勢湾、濃尾平野という山・河・海・野の幸に恵まれた生産性の高い土地柄だった。つまり尾張の国力は、奈良時代の頃まではよくわからないが、伊勢湾を挟んで、大和と対峙する東国の入口であり、熱田宮を祀りつつ、確固たる勢力を持っていたと思われる。また、江戸時代をみても、米だけで六十二万石、その他の生産品を加えると二百万石に上ると言われている。地勢は何億年もたてば変わるかもしれないが、ここ二千年程度では変わらないので、尾張は有史以来豊かだったことになる。
 そこで「古事記」。大和朝廷は、全国平定に向けて、まず九州の熊襲タケルを滅ぼし、帰りに出雲タケルを討ち、さらに東国征伐に乗り出したが、尾張・熱田は征伐という方法に拠らず、婚姻という方法を採った。日本武尊と宮簀媛の結婚。これは背後に尾張の国力が並一通りではなかったからである。換言すれば、尾張と戦えば、大和朝廷方の損害も大きい。というわけで、戦いではなく和睦(平和的解決)、謂わば親戚という形で決着した。しかも神剣草薙の剣を宮簀媛の許において。この草薙の剣が、そのまま熱田宮のご神剣として、今も熱田神宮に祀られている。
 ところで、熱田に平将門の首塚と伝えられる所が三カ所ある。一つ目は今の白鳥小学校(筆者の母校)の南東角、二つ目は熱田神宮西門から入った菅原社から茶席又兵衛あたり、三つ目は熱田区大瀬子のあたり。
 一つ目の首塚についてはその謂われ未詳。ただし二つ目の首塚の西側、熱田社西門(鎮皇門)のすぐ西側、政所(現在は宮庁といい、神宮境内に移してある)の南東先端に位置している。この場所は、鎌倉街道を挟んで西東に位置しており、二つ目に卑近な距離なので、或いは二つ目の伝承が境内外へ漏れ出たかと思われる。
 二つ目は、かつて熱田社境内にあった神宮寺。神仏習合(混淆)思想のため、伊勢神宮を除く大きな神社には神宮寺が有、また主な寺院には神社があった。熱田社の神宮寺は神宮寺大薬師。山号は初め亀頭山(きづさん…熱田の寺院の山号には亀○山と称するものが多い→後述)。この神宮寺に関わる祭が八月八日の熱田宮神幸祭。いわれは、「尾張名所図会」には、
 ……承平年中平将門誅伐の遺風をうつしたる神祭にして、行粧の次第は五月の神幸(五月五日の大宮神輿行幸)に同じ。又里俗此祭をさして放生会といへるは、将門誅伐のとき数多の軍兵を討取り、人民の命を某ふ。故に石清水にして放生会行はる。同時に当社にてもこの祭式始り、又昔は放生会も行はれしよしなり
とあるが、実はこの祭そんなに生やさしいものではなく、「尾張年中行事絵抄」には、
 八日、熱田宮神幸。此御祭は、人皇六十一代、朱雀院の御宇承平二年、平親王将門謀反す。是を誅伐のため、調伏の御祈行わる。則、当宮の神輿を、星崎庄に出して祭る。神霊の験しにや、忽神輿に血かゝりしかば、再宮内に入奉る事あたわず。依之其神輿を神宮寺[大薬師也]の堂内に納め、薬師仏と同座有しが、其後、堂内より出し奉り、神殿一宇をたつ。大福田の社是なり。此時、星崎の地へ神幸の様をうつして、初し神祭なり。世に此神祭を、放生会と称する事は、かの将門誅伐の時、数多の軍兵を討取、の命を亡ふ故に、石清水にして放生会を行わる。同時に当社にても、此祭式初りし由。放生も行れし成べし。むかしは、星崎へ神幸ありしが、今は大福田の社へ神幸ありて、拝殿に於て座主、供僧香をさゝげ、社人鉾を振等の式畢て、大宮へ還御あるなり。むかい、星崎へ神幸ありし頃は、尾張八郡の諸社の社人、各供奉ありしとかや。今星崎の神輿山といふ所、其旧跡なり。 とある。また、「尾張名所図会」巻三には、
 大福田社 ……〔本國帳〕に大福田大菩薩とあるこれなり。朱雀院の御宇、相馬将門叛逆せしかば、追討使を下され、勅して熱田社にご祈願あり。神輿を星崎にふり出し奉りて祈祭す。故なくして忽神輿血に染みしが、将門其時刻に秀鄕・貞盛が為に誅せらる。是大神の示し給へる先兆なり。然るに其輿血に汚れて本宮に還座なしがたく、新に一祠を建てゝ是を収め、大福田社と號す。
とある。神宮寺も大福田社も現存していないので、詳細はわからないが、神事だけは続いている。神輿に血の雨が降る等と謂うことは、前代未聞、縁起の悪いこと限りなし。しかし、そこは草薙の剣の御利益として、将門の怨霊(御霊)を鎮め、天下静謐、五穀豊穣を祈念している。今も鎮魂の祈願が続いている点に大いに注目したい。
 続いて三つ目の伝承地、熱田区大瀬子町。「尾張名所図会」には、
 ①涙川 清雪門の前なるよし「厚覧草」にみえたり。古歌に「涙川其の水上をたづぬれば阿波手の森のしづくなりけり」と阿波手を読み合わせたるによりて、此辺を涙川の跡なりといひ伝へたり
 ②表大瀬子にあり。俗に平親王将門の霊を祭るといへり。
 ③扇の橋 扇川に掛かる橋。同じ所にあり。此所将門の首を埋みし跡といひ伝ふ。彼「将門は米かみよりぞ射られける」といへる故事によれるにや、一名米かみ橋ともよべり。
 ④社宮司社(須賀町) 「尾張徇行記」には猿田彦命を祀るとあり、「熱田旧跡記」「熱田之記」等には、平将門の首を祀る三狐神社とも書かれている。
 これらの平将門首塚伝説は、いまはほとんど知られていないが、特に二つ目の、神輿を出したら神輿に血の雨が降ったと言う出来事は、将門の怨霊の凄さを物語っている。また、将門の首を都へ持って行く途中、熱田で休息をとったが、都へ持って行くのは面倒だと、ここ熱田の扇川で首を洗い清めた後、こめかみ橋のたもとに埋めたとも謂われている。しかし、将門は関東一円で猛威を振るったのだが、野望の途上で亡ぼされ、首は都に送られたという。熱田の地とは直接の関係は持たない。にもかかわらず、将門の首塚がいくつも存在するのである。
 熱田には日本武尊以来数多の説話・伝承が伝わる。将門の首塚もその一つだ。前述した如く、熱田は大和から今日の都から下ってくると、まさに、異国、東国との境の地なのだ。熱田を通らねば、都へも、関東へもいけなかった。ここでは東西の出合の儀式も鎮魂の儀礼もきちんと済まさねば、何方へも行き着けないのだ。これは日本海側に海道や鉄道が出来た今でも、熱田(名古屋)を中心とした物の流れ・人の流れはほとんど変わっていない。東海道新幹線もリニアも太古からの流れの中にある。
 大和や京の人々が東に下ってくると、伊勢湾あるいは木曾三川の向こう側に、突如として南東に広がる熱田台地が目に映る。眼前に蓬莱の島とされる熱田宮の森があり、その西北に鷲峯山に譬えられる  峯山(断夫山)があって、熱田の地は神代の時代からまさに彼岸の浄土であった。
 熱田に到来して、生まれ変わった新たな人生も始まった。平治の乱の敗戦の将源為朝に関わりのある場所が約三十カ所も存在する。そして、鎌倉幕府を開いた源頼朝が産声を上げたのは熱田、現在の誓願寺。頼朝の母は熱田大宮司藤原季範の娘由良御前。平治の乱で捕らえられた頼朝を助けたのは、清盛の継母池禅尼。その池殿屋敷は誓願寺の北側にがあった。現在は菖蒲池という地名が残るのみ。『義経記』によれば、牛若丸は東国藤原氏を頼って向かおうとするときに、幼名ではまずいと謂うことになり、元服して向かうことになり、烏帽子親は時の大宮司藤原範忠。「義経記」には此の時、蒲冠者範頼とその母も同席していたらしい。その後、義経も範頼も頼朝に従って、平家滅亡に大活躍した。
 熱田は、大和人が新たな国、東国に、最初に見出した地、最初に繁栄した地であった。
 尾張の繁栄もこの熱田から始まった。


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